会期:2016年8月11日(木)—2016年8月28日(日)
会場:NADiff Gallery
〒150-0013 東京都渋谷区恵比寿1-18-4
開館時間:12時—20時
休館日:月曜日定休※月曜が祝日の場合は翌日
URL:http://www.nadiff.com/?p=1134
日記が行為を促すために──今日のデモに花子は出かけたかな?
松井茂(詩人・情報科学芸術大学院大学准教授)
詩としての日記
僕は日記を書く習慣を持ったことがない。続かないのだ。その反動か、詩を書きはじめた当初から、この営みを日常の記録にしたいと考えていた。こうした日記への衝動は、現代芸術のあらゆる動向において、日常という概念が特殊な意義を持って、非日常の領域に躍り出てきたというか、積極的に日常が非日常を浸食することで発展してきたということの証左に違いない。 近代以前の芸術は「聖」なるものだった。かつて「聖」は、「ひじり」と読み、これは「日知り」を語源としたという。洋の東西を問わず、近代以前の「ひじり」は、宗教的な根拠をもった特定の日を祝う「ハレ」としての「祭」の概念に通じていた。始源的な「日知り」は、非日常の「日」を知る「聖」として、「祭」を「政=まつりごと」として司っていた。そしてニーチェを引くまでも無く、近代は神を殺し、「聖」を問い直す眼差しは、特定の日より も不特定な日々に醒めていく。「ハレ」 より も「ケ」へ。宗教や政治、芸術は、日常性を拡張し、突出的で垂直的表現を規範としながらも、日記的で水平性に転回し、現代に至るだろう。
日々、詩を書く行為によって、僕はこうした感覚を醸成し、自覚してきた。日記という手法を意識し、詩という文学形式から、河原温のようなコンセプチュアル・アートの試みを知り、近年研究対象とする、テレビ・ディレクターの今野勉が、1960年代にテレビは「ケ」のメディアであると主張したことにも出会った。テレビ・メディアが従来の芸術に対して挑戦的だった部分は、現在のネットワーク・カルチャーへも接続し、かつての「聖」なる神の芸術を、「ネ申」として召還し、新たな芸術を再構成しつつあるように僕は感じている。作家・青柳菜摘の位置もまた、そのような地平にあると、僕は理解している。
日記という戦略
日々へ遡行する芸術に鑑み指摘したいのが、美術批評家、東野芳明の仕事だ。
1960年代、東野はかなりの頻度で日記を批評として発表した。私見では、芸術とメディアが「ハレ」に醒め、不特定多数な「ケ」の日々を急激に拡張したことに即応して、日記という手法を、批評的戦略として選択したのだと思う。瞬く間に思考を記した日記を批評としたとき、日記の「記」は、記録の「記」なのか記憶の「記」なのか揺らぎはじめる。批評となった日記は、次に続く行為に影響を与えずにはおかない。予測、予見、予知として溢れだし、予定され、実現されるべき未来へと接続する。
僕が日記至上主義者に変節したというか、日記的表現を是として強調することに確信を抱いたのは、東日本大震災直後、節電で仄暗い四ッ谷の書店で手にした、町田康の『真実真正日記』がきっかけだった。どういうわけか僕は、中盤くらいまでこの本を、タイトル通り「真実真正」の日記だと思って読んでいたのだ。この経験を通じて、日記という手法の持つ戦略に、なんだか知らないが、僕は無条件降伏した気分になった。と同時に、東野芳明の戦略に気がついたのだった。 さて、近年出版を前提に書かれた日記を振り返ると、『壇蜜日記』は退屈な戦略に堕していたが、原武史の『潮目の予兆 日記2013・4-2015・3』は野心的な日記であったと思う。原が強調するのは、日記という枠組みを利用した習慣の提示、いわばパターンであった。ファナティックな「ハレ」としての日々でなく、反復する日常としての「ケ」に誘導し、理性を引き寄せる。この手法をメッセージとして読み取るかは、各人の読解に委ねたいが、「空間政治学」を提唱する原の戦略をこの日記に解読しなくては野暮というものだろう。
ちなみに原がこの日記の連載を始めるにあたってリファレンスとしたのは、竹内好の日記で、「そういえば」と、わざとらしくテキストの方向性を軌道修正すると、竹内と武田泰淳の旅日記を、武田百合子が『犬が星見た』としてまとめていたことを想起するではないか。
青柳菜摘の孵化日記
原の日記に加え、テキストでは無い青柳菜摘の『孵化日記』との出会いもまた『真実真正日記』体験以後の野心的日記体の発見であった。2016年1月に「Media Practice15-16メディア映像専攻年次成果発表会」を見学した際、僕はこんなことを書いている。
「……この人の活動をどう捉えるべきなんだろう?と、以前から考えている。今回に関しては、本人がカタログに書いているように、「メタドキュメンタリー」という説明でもわかるのだが、そもそも僕自身は、なにを面白いと思ったのか……。
3面の巨大なプロジェクションによる『孵化日記』は、20分間の構成と編集に、一瞬、二瞬、三瞬と、高解像度で、精緻なプログラミングで制御される昨今の映像作品を想起させるニュアンスをちらつかせながら、そちらへは切り替わって行かない。
「ニュアンス」。つまり、なにか「らしい」という、「らしさ」が、なんらかの引用、あるいは模倣、あるいは偶然というような様々な様相を見せていると思う。そうした物語や表象における断片は、「らしさ」を往還し、既存のリテラ シーを解体して進行する。進行することで、そこにはなにかが再構築されている。「引用」は「理解」を、「模倣」は「気づき」を、「偶然」は「驚き」を惹起していく(そんな意識を明確に持ちながら観たわけでは無いのだけれど……)。いずれにしても、エンタテインメントの映画や、美術における映像作品の系譜(メディア・アート、ビデオアート、実験映画……)を解体し、再構築する、冷ややかな「動画芸術」(東野芳明ふうに言ってみた)、それが現在の「ヘタウマ」の発現なのかもしれない。僕はそれを楽しんでいる」。
記録と記憶と歴史批判
しばらく後で、青柳が書いたテキストに、武田百合子の『富士日記』に関する言及を見出した。言われてみれば、青柳のしゃべり方自体が、そもそも『富士日記』の文体に似ているような気もする。僕は『富士日記』を日記好きの妻に教えられてお風呂で読みはじめ、クセになったのだが、『孵化日記』の魅力を、『富士日記』「らしさ」からも指摘してみたくなった。
『富士日記』のあとがきには、武田泰淳の死後、ふたりで生活した期間の日記を「書き写し」たとある。自分の日記を「書き写す」とは、すこし不思議な作業ではないか? 端的に出版のための編集、変換作業なのかもしれないが、同時に自己言及的な内面化がはかられる機会にもなると思うのだ。青柳の『孵化日記』は、いまのところテキストというより も映像作品で、インスタレーションだ。それを文学的な手さばきと一緒くたにするのはいささか乱暴だが、『富士日記』において「書き写す」という作業にあたることが、青柳の手法として、映像に変換されて行われているのではないか? 青柳が「メタドキュメンタリー」と表明する「メタ」は、記録を見直すことを通じて行われる記憶の検証だろう。記録を記憶へと引き寄せる編集作業、ナレーションの挿入、ドローイング等の追加は、メディアの変換による「らしさ」の往還を作りだすべく、後から後から、バックミラー越しに痕跡化をはかる営みだ。
記録に記憶を挿入していくという行為は、歴史の捏造に加担するだろうか? 事実の証拠としての映像こそが記録とされているのだろうか? 記録として撮影された映像を、しばらく後に回顧し、経験の瞬間を「記憶(=出来事の変形)」にあわせて補正することは、なんらかの事実と対立し、虚構として絵空事扱いされてしまうのだろうか? 人は、出来事とされる現象の正確な記録に引き戻されながら生きるという より も、正気を保つために、経験の瞬間の痕跡を「真実」として再構築しているのではないだろうか? 出来事の記録に対して、感情の真実とでも言いうる作業仮説を制作する営みに着目したい。
現在から振り返った過去のある時点で、自分が何を感じたり思ったりしたのかに現在から気付くこと。現在がむしろ過去へ、過去へ、過去へと影響するような表現の試み。それをアーカイブ的表現と呼ぶこともできるだろう。「アーカイブ的」とわざわざ言いたてたいのは、この営みは、歴史修正主義で無く、「政=まつりごと」の叙述を中心とした「歴史」概念への異議申し立てであり、その批判意識の側面に注目したいからである。
記録と記憶のズレを明らかにしたまま、「理解」や「気づき」や「驚き」が促されることこそが、いまを生きるための人間の習性というか本性であり「真実真正」なのだと仮定してみたい。青柳の作品に対して、僕が徒に生命力を感じる由縁は、「真実真正」の過剰に対してなのかもしれない。
今日のデモに花子は出かけたかな
武田百合子『富士日記』昭和四十五年六月二十三日。
「今日のデモに花子は出かけたかな。滑らない転ばない、いい運動靴をはいていったかな」。 はじめてこの一文に接したとき、僕は「えっ?」と思って、一瞬ついていけなかった。その日の出来事の叙述が終わったところから、娘の一日を推測し、推測通りなら完了している出来事に対して、未来のことであるように、願い事を投げかけている。
文字通り、目から鱗が落ちた。
この文章、文体に似た魅力を「孵化日記 タイワン」(Kanzan gallery、2016)の展示に垣間見た(というのは言い過ぎかもしれない)。すでに完了した時間を遡って推測し、願いをかける。記憶が記録のフレームから溢れ出す感触。
「日記が行為を促すために!」
多くの人に体験して欲しい瞬間だった。
現在において、日記という戦略の過剰は、タイムラインを基調とするSNS等のメディア性を想像力のテコに、過去の叙述とリアルタイムの行為と未来の予定を接続し、瞬く間に記された過去の感情を未来の記憶へと投企していく。言わば、これまでに存在しなかった時制表現とハプニング性を獲得しつつある。だからこそ、青柳の『冨士日記』に、新たな日常の拡張と、硬直化した歴史概念への批判意識を期待しつつ、僕は百合子が書いた「今日のデモに花子は出かけたかな」という一節をしばしば口誦さんでいる。「滑らない転ばない、いい運動靴をはいていったかな」と。
松井茂 Shigeru Matsui
1975年生まれ。詩人、情報科学芸術大学院大学[IAMAS]准教授。映像メディア学に基づいて、マス・メディアと現代芸術の影響関係について研究している。共編に『虚像の時代東野芳明美術批評選』(河出書房新社、2013年)、『日本の電子音楽 インタビュー編』(engine books、2013年)等。関わった展覧会に「高松次郎:アトリエを訪ねて」(Yumiko Chiba Associates、2016年)、「あゝ新宿 スペクタクルとしての都市」(早稲田大学演劇博物館、2016年)、「磯崎新 12×5=60」(ワタリウム美術館、2014年)、「藤幡正樹Expanded Animation Works」(恵比寿映像祭、2014年)、「もうひとつの都市ソラリス」(東京藝術大学芸術情報センター、2014年)等。
OPENING TALK EVENT「青柳菜摘朗読会」
出演:小沼純一(詩人、音楽・文芸批評/早稲田大学文学学術院) 、青柳菜摘
モデレーター:松井茂
日程:2016年8月11日(木・祝)
開場:16:30-
開演:17:00-19:00 ※トーク終了後レセプション
会場:NADiff a/p/a/r/t 店内
入場料:500円
定員:40名
小沼 純一 Junichi Konuma
1959年東京生まれ。音楽を中心にしながら、文学、映画など他分野と音とのかかわりを探る批評を展開する。現在、早稲田大学文学教授。音楽・文芸批評家。著書に『武満徹 音・ことば・イメージ』、『バカラック、ルグラン、ジョビン 愛すべき音楽家たちの贈り物』『ミニマル・ミュージック その展開と思考』『魅せられた身体 旅する音楽家コリン・マクフィーとその時代』『映画に耳を』『音楽に自然を聴く』他多数。詩集に『しあわせ』『サイゴンのシド・チャリシー』ほか。編著に『武満徹エッセイ選』『高橋悠治対談選』『ジョン・ケージ著作選』ほか。